父の死と考えた事(1):いろんな「ありがとう」

父が平成19年(2007年)11月25日に死去した。突然死ではなく、がん死である程度予測できた死であった。それにまつわり考えてきた事を記す。

父トキヒコは、昭和10年旧新井市(現妙高市)のN家に生まれた。
医師になるため、M家に養子に入る。医師免許取得後直ちにM医院で勤務。殆どただ働きで、こき使われていた状態だったらしい。行くだけで大変な山奥の僻地の診療;大雪の中の往診などは全部父が押し付けられる感じだったらしい。大雪の時はジープで山奥まで出かけていき、当時の車はジープといえどポンコツだったから、すぐにエンコするしパンクするし、そんな時は雪をかき分けて歩いてでも山奥の家まで往診。山奥の診療所まで時々付いていった、かすかな記憶はある。
この頃の記憶… 小さい頃はよく頭を撫でてくれた事、妹や弟の出産で父が料理した時は決まってキャベツの味噌汁だった事は覚えている。
いろんな人達に、「これで先生(父)も跡取り(僕)が出来たから安心だね」と言われていて、それは子供心としてはあまり嬉しくはなかった。

昭和49年(1974年)に直江津の母の実家I家にA医院を開業。母方の祖父母との同居だったので、いろんなストレスもあっただろう。それでも開業医としては少しずつお客さん(かかりつけの患者さん)を増やしていった。
当時は今のように、レジャー施設等が充実してはいなかったが、夏は海に、冬はスキーに連れていってくれた。休日は近くの公園でキャッチボールをしてくれた。
その後、昭和56年(1981年)現在の上越市木田にA医院を移転した。
父は勉強家だった。当時の開業医としては早くから胃内視鏡を始め、最近は腹部エコーも独学で行っていた。
趣味はさほど多彩ではなく、ゴルフくらいだった。ゴルフは夢中だったようで、よく朝の早くからベランダで素振りを始めるものだから、うるさいと文句を言った記憶もある。医師会などでゴルフの仲間も多く、人脈を作るためにも僕にもゴルフをしろと勧めた。僕はゴルフの才能がないのか、アメリカ留学中に毎日のように練習し毎月のようにラウンドしたが、とうとう100を切れなかったし、日本では年1回ラウンドがせいぜいで、上達できそうもないので早々に止めてしまった。そう言っても、さかんにゴルフをしろと僕に勧め続けた。
父とはよく将棋をさした。およそ互角の強さだった。父の将棋は実戦的なもので、居飛車から始まるが中盤で六間に振る事が多かった。僕の将棋は父に習ったものだが、その後に本などで研究し三間や四間に振ったり、穴熊に囲ったりいろいろ試みたのだが、勝率は半々でそれ以上にはなれなかった。しかし、父と将棋をさしている時は楽しかった。


(僕が小学5年生の時の家族写真、父は41歳で丁度今の僕と同年代)

さて、僕も金沢医科大学に入学し医師としての道を歩む事になった。廻りからの期待も(勿論父の期待も)いつかは一人前になって、開業医としての実家を継ぐという事だった。自分自身でも当初は漠然と、そのようになるのが当然と考えていた。
医師免許取得後に内科研修として当時の金沢医科大学病院は内科系全科(7科に分かれている)をローテイトするシステムであった。その際は父が主に消化器系を診ている事から消化器内科に所属していた。仕事に貴賤は無く、特に医師としての仕事は何科を廻っても面白く、やり甲斐のあるものである。その中で特に何を自分自身の生涯の仕事として選択していくか、かなり悩んだ時期もあった。
最終的に、自分自身の決断で血液免疫内科学を選び、消化器内科へはお断りを入れた。この時も父は、血免って何診る科? という反応であった。

いずれは実家を継いで欲しいという父や周りの期待もあり、月1〜隔週で実家の診療を手伝いに行った。
開業医の仕事は大学病院とは客層が異なる。当然診療のスタイルもある程度かえなければならない。例えば大学病院では最初からルーチンでとるような検査でも、開業医でやればとり過ぎになってしまうから、いかに最小限の検査で診断に至るかという訓練である。逆に大学病院では診断までに何回も何日も時間をかける訳にはいかないので、多めにスクリーニングしてでも、見逃しはしない事が肝要となる。開業医の場合は、風邪で受診される患者さんも、点滴や注射をしてもらうだけで安心する事が多く(特に御高齢の方)、宜しければ点滴もしましょうか? と尋ねる必要がある。最初から点滴希望ですという方も結構おいでる。一方、大学病院では風邪くらいで点滴はまずしない。
父の診療スタイルは地域医療重視の開業医スタイルであり、いくら勉強家であっても、新しい知識や情報は得るのは難しいので、それは僕が父に教えた。一方、父は胃透視や内視鏡を長年やっていて、僕は素人なので父から教わった。胃透視まではなんとかやったが、内視鏡は上達できなかったし、患者さんに苦痛を長く与えるだけの結果になるので、もうやらないと宣言した。


(父と曽根教授の骨標本にお参り。曽根教授は父と僕の共通の恩師である。)

父は平成17年(2005年)の6月に大腸がんを発病し、金沢医科大学病院で手術を受けた。大腸の原発巣は取り切っていただいたものの、既に術前に肝臓に沢山の転移巣が見つかっていた。手術中に、ジュージュー焼く治療も行っていただいた。
その後、外来化学療法として抗がん剤治療を続けてきた。近年の抗がん剤化学療法の進歩は目覚しく、以前であれば非常に厳しいがんの転移だが、FOLFOXとかFOLFIRIという併用化学療法で、転移のある大腸がんでも平均2年間くらいの生存期間が得られるようになってきている。父は発病し、2年5ヶ月間生存できた事になるが、抗がん剤治療を続けながらも開業医としての仕事もギリギリまで続けてきた。

父が死に瀕する病気に罹患した事で、僕自身の身の振り方を決断する時期が近づいてきた。二つの選択肢、(1)地元に帰って父の後を継ぎ開業医となる、(2)大学に残り一方実家は閉院する。どちらの道を選んでも、多くの人達にはゴメンナサイしなければならない。これは考えれば考えるほど辛い選択肢だ。いろんな方々に相談にのっていただいた。結局、自分自身がやりがいを感じている仕事を続けようと決断。悪性リンパ腫の診療を中心とした血液内科医としての仕事を大学病院で続ける事にした。選択肢(2)である。地元の患者さん達、実家の従業員、父と母の期待を覆す事になる。

抗がん剤治療を受けるため父と母は2〜3週毎に上越から金沢へ、僕は父のタイミングに合わせて金沢から上越へという生活が2年以上に渡って続いた。上越と金沢の移動は、電車でも車でも片道2時間程度を要するため、日帰りはしんどい。かなり無理のある生活サイクルであり、金沢医科大学の医局、A医院の職員双方に多大なるご負担とご迷惑をおかけした。それだけでなく僕自身や家族にもかなりの負担を来した。父や母もギリギリ限界の体力で金沢へ電車で通った。治療前日に我が家へ泊まり、妻の手料理を食べ、娘達とたわいのない会話や遊びをした。次女のモモと指相撲をするのがとても嬉しそうだった。少し前までは黒猫リッツが父になつき、一緒の布団で寝るようになった。治療当日は朝早くから病院へ行き、採血を受け、点滴治療を受け続けた。
「早くがんが直らないかなあ?」 父とて臨床医であり、肝臓に多発転移したがんが直る見込みは厳しい事は分かっていたはず。分かっていても、自分は直ると思い込む。当然と言えば当然、皆自分だけは特別で、死ぬはずは無いと思うのだから。

吉村達也氏の著書より「死んでからありがとうと言うくらいなら、生きているうちに何故言わないのか?」という名言。
しかしながら、なかなか「ありがとう」というのは難しい。何に対して? 僕が父に「ありがとう」と言えるのは、決して楽ではない実家の経済状況にも係らず、私立の医科大学に入学させてもらえ医師にしてもらえた事、これが最大。これについては何度か「ありがとう」と言った。勿論その他の事についても出来る限り「ありがとう」は言った。だが…
父にとって、最大の「ありがとう」は、僕が予定通り実家を継いで盛り上げていく事だったろう。最大の「ありがとう」を言えず、結局「ごめんね」と言う道を選んだ。

死去数日前、父と僕は沢山の事を語り合った。
「おまん、金沢にどれだけ居たんだね?」 うーん、今年で24年目かな? 「えーっ、そんなに居たのか?」。 住めば都だよ、食べ物も美味しいしね。
「木田は私にとってパラダイスだったなー。おまえたちにとってもそうだろう?」 そのこころは? 「だってさ、… なーんにも無いんだから」 … 木田は、良いところだったね…

総じて父は、口数は多いほうではなかったが、争いごとを好まず、独特のユーモアもあり、温かみのある人だった。そのせいか不思議と比較的年配の先生方に可愛がられ、いろいろお世話になったという。後輩の先生方の面倒見も良かったらしい。
最後の最後まで働き続けたのは、父にとっては辛かったかな。早々にリタイアしたかったようだ。でも仕事をし続けた事が、がんと闘病しながらも永く生きられた要因とも思うけど、それは僕の勝手な言い分。
さてそれでは、長い間「ありがとう」、ご苦労様でした。ゆっくり休んでください。今頃は少し前に天に昇った、黒猫リッツと一緒にくつろいでいるかな。それともゴルフでもしているかしら? 

2007年12月末日、父の築いてきた上越市木田のA医院を閉院した。父や様々な人達の期待を裏切って、自分の道を進む事にした。もう地元に帰って開業医を継ぐという逃げ道は閉ざしてしまった。
今年の冬は寒い冬で、久しぶりに多く雪が降りそうだ。これからは地球温暖化でどんな天変地異も起こり得る。未来は予測出来ない。しかし明るい未来を信じたい。


(父とリッツ)