がん(特に末期または進行期がん)患者に対するインフォームド・コンセント

人はいつか必ず死にます。そして、日本人の3大死因は悪性新生物(癌)、脳血管障害、心疾患です。仮にそれぞれ、1/3づつの割合で起こるとします。あなたは、自分が死ぬときはこのなかのどれで死にたいと思いますか?
ぽっくり死ぬのがいいか?…脳血管障害、心疾患
だらだら死ぬのがいいか?…悪性新生物(がん)

今この問に関しては、殆どの人がぽっくり死ぬ方が苦しまなくていい、と答えると思われます。ではなぜ、だらだら死ぬ(がん)ときは苦しむと考えるのでしょうか? この事を考えながら以下の話を考えて頂けたらと思います。
ぽっくり死ぬと苦しむ期間は短くてすむかむしれません。しかし、やりのこした事があって後悔する可能性も大きいと思いませんか。でも、だらだら死ぬのは苦痛が長引きそうでいやだ…… 

もしも、自分ががんになった時、どうしたいか、もしくは、どうしてほしいか…ということを、考えてみてください。

少し話は変わりますがこれからの医療でがん患者(特に末期または進行期がん)のためにに我々は何をしなければならないのでしょうか?
1、高度で先進的な治療を展開し、治癒率・寛解率をあげる努力
  外科的治療、放射線療法(外照射、内照射)
  化学療法(全身的、局所的)
   ※造血器幹細胞移植を併用した大量化学療法
  免疫療法、温熱療法
  遺伝子治療、など
2、ターミナル・ケアをしっかり行う努力
  インフォームド・コンセントを正確に行い、患者の治療選択権を重視する。
  上記の高度な治療を選択しなかった場合の代替治療としての緩和医療/緩和ケア。

治癒率・寛解率を上げる努力は当然必要で、現在確立されている治療法を組み合わせ治癒率・寛解率を上げるだけでなく、時には新しい治療法の開発も率先して取り組んでいかなければなりません。しかし、新しい治療法はどうしても実験的な要素を含みます。現在のいかなる治療法でも助かる見込みが無い時、医師が自分の興味本位だけで実験的レベルの治療法を勧めておしつけるのは問題があります。全ての情報を伝えて患者自身にその治療を受けるか否か選択させて、選択しなかった場合にはその代替治療としての緩和医療/緩和ケアをしっかり行うべきです。
言い替えると、キュアが望める疾患(患者)に対しては、最大限のキュアを狙う努力を行なう。キュアが望めない疾患(患者)に対しては、最大限のケアを行なう。1番と2番はがん治療の両輪であるべきで、どちらかに片寄るのは良くないと思われます。

以下、私の考え方を呈示します。しかし、これが全ての人に受け入れられるとは、思っていません。いろいろと反論があることも予測しています。ただ、あまりこういう事を考えた事のない人に少し考えて頂けたらと思っています。また、反論がある方はぜひ教えて下さい。私の考えもいろいろな意見を取り入れて、改善していけたらと思います。

がん患者(特に末期または進行期がん)に対するインフォームド・コンセント
その理論と実践

1)理論編

もしも、自分ががんになった時、どうしたいか、もしくは、どうしてほしいか。
私だったら、苦しんで死ぬのはいやです。従って、
1、治療を受ければ治る可能性の多いがん→がんばって治療をうけたい。
2、治る可能性の殆どないがん→積極的な治療はせず、苦痛のみとって欲しい。
3、がんばって治療しても治る可能性が半々くらい→その時の自分の精神状態や立場などによって考えたい。
しかし、こういう選択は本人が知らないとできません

ここで、また少し話がずれますがインフォームド・コンセントの歴史について述べます。なぜなら、がんの告知とインフォームド・コンセントは切っても切れない関係にあるからです。また、ただ告知賛成とか反対とか論じてもあまり意味がありません。がんを告知することはがん患者のインフォームド・コンセントを得る上で、避けて通れない事だからするのです。
しかし、どうも日本ではインフォームド・コンセントの解釈を歪曲して、がん患者に対してだけは本人に了解を得ないでも家族だけ納得させられれば良い、という風潮があるようです。これはおかしいと思いますので、少し廻り道をします。

インフォームド・コンセントの歴史

1947年 ニュールンベルグ綱領;被験者の自発的な承諾
1964年 ヘルシンキ宣言;インフォームド・コンセントという言葉が使われ始めた。
 以後、医学論文にはインフォームド・コンセントの記載が必要とされることになった。
1981年 リスボン宣言;一般医療における患者の権利
 患者は医師を自由に選ぶことができる。
 その医師の外部から干渉を受けない自由な臨床的、倫理的判断による治療を受ける権利 がある。
 十分な説明を受け、しかるのちに治療を受けるか否かを決める権利がある。
 プライバシーを尊重される権利がある。
 尊厳を持って死を迎える権利がある。
 宗教を含め精神的、道徳的な慰めを受け、またこれを断わる権利がある。

このリスボン宣言で謳われている事は現在のインフォームド・コンセントの考え方の基本を成すものであり、どれをとってもあたりまえの事ばかりです。この内容には日本人とかアメリカ人とか、人種によって変わる事があるとは思えません。

第1の結論
インフォームド・コンセントという概念は世界的・人類的な見地のものである。

一方で、日本においてインフォームド・コンセントがどう解釈されてきたかを述べます。
日本におけるインフォームド・コンセントの歴史

1990年 日本医師会生命倫理懇談会;「説明と同意」についての報告
世界的な歴史からみると大分時間が経ってから、インフォームド・コンセントに関する懇談会が開かれました。
その中で、特に「がんの告知」について言及している部分がありますので、抜粋します。

    がんの告知
     1、告知の目的がはっきりしていること 
     2、患者・家族に受容能力のあること
     3、医師及びその他の医療従事者と患者・家族の関係がよいこと
     4、告知後の患者の精神的ケア、支援ができること
    など、
これらが整っている場合に限り「がん告知」を行うべきである

一見尤もらしい意見ですが、逆にとると、これらが整っていないときにはがん告知を行なうべきではない、という事であり、私にはどうしてもがんの告知をネガティブなものとして捉えているように思えてしまいます。
これらを整えたうえで「がん告知」を行なうべきである、とすべきではないでしょうか。

1995年 インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会
ここでも、一見尤もらしいのですが実は意味不明の言葉が登場します。

     「元気の出るインフォームド・コンセント」の定着を目指す
     「日本にふさわしいインフォームド・コンセント」

私の、疑問は以下の如くです。
1、「日本にふさわしい」など地域を限定する必要があるのか?
2、「元気の出る」とはどういうことか?

ひねくれて物事を捉えすぎだと言われるかもしれませんが、
「日本にふさわしい」→がん告知は日本ではあまり一般的ではないから、日本ではがん患者に限って本人を無視したインフォームド・コンセントでもよい。
「元気の出る」→怖い病名を聞かせてショックを与えないように、嘘も方便で良性疾患名を告げてもよい。
と、解釈できるようにこのような表現を用いている気がしてなりません。

先程の、リスボン宣言の中身と一部重複しますが、私の考えるインフォームド・コンセントにおいて重要なことは、
1、正確な情報(病名、病状、治療法、その効果と副作用、予後など)を患者に伝えること。
2、特に治療法に関してはいくつかの選択枝を示して患者に選ばせること。
3、一度同意した治療でも後で自由にこれを撤回できることを示すこと。
4、最低、一日は考えさせること。
5、これらの同意を文書にてとること。
6、患者と医師とが平等な立場であること。
等です。 
 
良性疾患はともかく、インフォームド・コンセントを語る際に「がんの告知」は鬼門です。病名告知をしないで、インフォームド・コンセントが可能でしょうか?
インフォームド・コンセントをきっちり行うためには、時に患者にとって残酷な事実を話さなければならない事もあります。
「元気の出る」事だけ話してすむような訳にはいきません。

ここで、先輩にあたる諸先生方には、失礼な言葉になるかもしれませんが、本音を言わせてもらうと、
なんだかんだ言っても、日本の医師が病名告知を行わないのは、実は医師がそのいやな仕事を行いたくないからです。
告知を行わない自分自身を正当化するため、ことさら日本人の特殊性(欧米人との違い)を強調しているのです。

「私は基本的には病名の告知には賛成です。しかし、様々な考え方、立場の人がいますので、それは慎重にケース・バイ・ケースで行っています。その患者さんの社会的な立場、例えば会社の社長さんや医者、芸術家などの場合はいりろと整理する仕事などもあるでしょうから基本的には告知していますが、それ以外の場合は患者さんに精神的ショックをあたえると困るのであまり積極的には行っていません…」
このような発言をよく耳にします。
これは、果たして告知賛成派といえるのでしょうか?

「慎重に」「ケース・バイ・ケース」という言葉は一見、患者さんのことを良く考えた様に思える、聞こえの良い言葉です。しかし、この言葉のなかにひどい差別意識を感じませんか? 社長さんや一握りの職業や社会的立場の人以外は、整理するべき仕事が無いと勝手に医師が決めてしまって良いのでしょうか?

ここで、最初の命題にもどります。
人はいつか必ず死にます。日本人の3大死因は悪性新生物(癌)、脳血管障害、心疾患です。仮にそれぞれ、1/3づつの割合で起こるとします。あなたは、自分が死ぬときはこのなかのどれで死にたいと思いますか? がんで死ぬ事を多くの人が嫌がるのは何故でしょうか?

病名告知されない現在の日本のがん患者の持つ苦しみは、
1、病気自身による苦しみ、痛み
2、治療(手術、化学療法、放射線照射など)の副作用等による苦しみ、痛み
3、誰も本当の事を教えてくれないという精神的な苦しみ
に分類できます。

では、なぜ告知されないと苦しむのでしょうか? それは、
1、本当の病名を知った瞬間のショックは避けられるかもしれません。告知しないで避けられるのは実は最初に受けるであろうこのショックだけなのです。しかし、通常のインテリジェンスを持った人なら必ず気付くはずです。考え方の問題ですが、じわじわと本当の事を悟る恐怖のほうが、私は残酷だと思います。
2、患者⇔家族、患者⇔医師、患者⇔看護婦これらの関係が全て嘘でしか繋がらなくなってしまいます。
3、治療の選択権を与えられず、ひたすら医師に強い治療を押し付けられる可能性が高くなります。
4、尊厳死を自ら望むことができなくなります。(これは後に詳しく述べます。)
等の要素があると思っています。
 
キュブラー・ロス著「死ぬ瞬間 On Death And Dying」における末期患者の死に至る過程の心理チャート。以下は、アメリカの精神科医キュブラー・ロス女史が、200人以上もの末期患者をインタビューしたうえで、その心理状態の変化をまとめたチャートを、更に私が勝手に一部改訂(簡略化)したものです。


 否認 怒り・憤り 取り引き 抑欝 受容 →

    希望               →
否認、怒り・憤り、取り引き、抑欝、受容という5つの感情が、時には順番にではなく、波のようにおしよせては消え、おしよせては消え、これを繰り返すといいます。また、この5つの感情と同時に全体を貫く希望という帯が書かれていて、「病気の段階がどうであれ、患者は最後の瞬間までなんらかのかたちで希望を持ち続けていた。私たちはこれを忘れるべきではない!」としています。

では、日本の病名告知を受けていない末期がん患者はどのような心理過程をとるのでしょうか?


 否認 怒り・憤り 取り引き 抑欝 (受容?)→??

   希望       →??  
これは、私が勝手に考えて作り上げた図で、実際には違うかもしれません(キュブラー・ロス女史のように200人もインタビューして作成した訳ではありませんから)。告知を受けないので、最初の否認の部分は薄いかもしれません。しかし、前述したように、告知されなくても、通常のインテリジェンスを持った人なら、必ず気付きます。従って、以下の怒り・憤り、取り引き、抑欝といった感情は同様にもしくは、知らされていないが故に、更に強く起こるものと予測されます。一方の希望はどうでしょうか? 最初は、予後の良い病名を聞かされていますから希望はあるかもしれません。しかし、徐々に気付くにつれてどんどん消えていかないでしょうか? 「私は治るかも知れない」という希望には限界があります。希望がなくなっていった患者が、受容の死を迎える事ができるでしょうか?「私は治らない不治の病にかかっているが、家族や友人に恵まれ最後まで愛されて幸せだった」という満足感が希望の代りにあっても良いのではないでしょうか? しかし、告知を受けていないと患者が精神的に孤立してしまうが故に、この満足感を得ることが困難になります。

もう一つ、重要な問題があります。以下は、日本尊厳死協会のリビングウィルの宣言書で、長くなりますが重要なので全文載せます。


尊厳死の宣言書(リビングウィル Living Will)

 私は私の病気が不治であり、且つ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします。
 なおこの宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
 従って私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。
1、私の病気が、現在の医学では不治の状態であり、既に死期が迫っていると診断された場合には徒に死期を引き延ばすための延命装置は一切お断りします。
2、但し、この場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのため、たとえば、麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
3、私が数ヵ月以上に渉って、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の生命維持装置をとりやめて下さい。
 以上、私の宣言による要望を忠実に果たして下さった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従って下さった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。
    ふりがな
    氏 名 
 自署               印

      明治
      大正   年   月   日生
      昭和                                


ここで、重要な点は、精神が健全な状態にある時に書いたものでなければ、リビングウィルの宣言書として通用しないという事です。つまり、病状がいよいよ辛くなってきて、肉体的のみならず精神的にダメージを受けてしまってから、ギブアップ宣言したくても尊厳死の望みが受け入れられない可能性が高いのです。
つまり、告知を受けていないと尊厳死を望めない事になります。

第2の結論
末期および進行期がんこそが実は最もインフォームド・コンセントが重要な疾患である。
理由
1、治療行為(手術、化学療法、放射線照射など)が患者を更に苦しめたり、寿命を短くする可能性がある。寿命が多少伸びても、病院に縛りつけられているる期間が伸びただけの場合も多い。
2、知らされないと、患者が精神的に更に孤立してしまう。

しかし、日本では末期および進行期がんには病名告知が行われない=インフォームド・コンセントを成り立せていない事が多いのが現状です。
ちなみに、患者に嘘の病名を伝えて同意を得た場合とか、患者の家族にのみ同意を得た場合にも、インフォームド・コンセントを得たとしている事が多い様に思われますが、これは正しくありません。正確な情報をインフォームしない、インフォームド・コンセントというのは矛盾した言語です。このような場合は、”この患者には「……」の理由により病名を告知できず、その結果インフォームド・コンセントを得ていない”と、正確に評価しておくべきです。
患者に治療の選択権を与えずに肉体的な苦しみを与えるばかりか、精神的な孤立状態に追い込んでしまっていることが多いと思います。

「患者をこのような肉体的・精神的苦しみに追い込んだのは、『告知を行わない方が良い』と考えている医師および家族の責任である」と、かつて私は考えていました。
しかしながら以下のような事実があります。
日本人は、
「あなたは自分ががんのときには知らせてほしいですか?」という質問には、
半数以上の人がYesと答えますが、
「あなたの家族ががんのときには本人に知らせてほしいですか?」という質問には、半数以上の人がNoと答える民族です。
そして、多くの医師はそのことを知っています。そのうえで、家族にまず怖い病名と病状を知らせておいて、
「ご本人にはどう説明しましょうか?」と質問するのは、実は
「本人には本当の病名を知らせないで下さい」という答えを期待した誘導尋問をしていることに等しい事になります。
従って考えをこのように訂正せざるをえませんでした。
「患者をこのような肉体的・精神的苦しみに追い込んだのは、『告知を行わない方が良い』と考えている殆どは医師の責任である」

私の結論
がんの告知はケース・バイ・ケースで行わない。全例に告知するべきである。
例外事項
 患者が 理解能力が無い場合
     自殺企図の可能性が高い場合
     (本人が告知を望まない場合?)
     老人
     (家族が告知を望まない場合)
                  
老人であるという事だけを理由に告知しないという考えには賛成できません。齢をとっていればこその個々の哲学もあるでしょうし、やり残したことや、感謝の気持ちを残したい人だって若い人と同等かもしくはそれ以上にあるはずです。ただし、どうしても老化に伴う痴呆の傾向が少しづつ加わってきて理解能力がない事が多くなりますから、ここは勿論症例毎に考える必要があります。ちなみに私は、通常の病歴聴取が可能であれば理解能力に問題がないと判断しています。

告知する患者を選ぶのではなく、告知しない患者をごく少ない例外として選ぶ、べきであろうと考えます。

でも、家族が反対したらなかなか告知できないじゃないか、と言われる事があります。
そんなとき、どう対処したら良いのでしょうか?

がん患者(特に末期または進行期がん)に対するインフォームド・コンセント
2)実践編

患者に病名告知を行う場合次の3パターンが考えられます。
1、患者自身にまず告知する。
2、患者と家族にいっしょに告知する。
3、家族にまず説明し了解を得た後に患者自身に告知する。
どの、パターンが望ましいでしょうか。
答え;ケース・バイ・ケースで行う。
(情報公開ははケース・バイ・ケースとせず全例に、どの人から説明するかはケース・バイ・ケースで考える)

1、患者自身にまず告知する場合
本来の患者自身の知る権利、治療を選択する権利を大事にするという前提にたてば、この方法が最も自然な方法と思われます。特に、診断確定までの間に患者自身が一人で病院へ訪れているような場合、それまでの検査の時間などを通じて医師と患者はそれなりのコミュニケーションが既にできているはずです。それなのに、がんと診断ついたとたん、一度も会ったことも話したこともない家族に(患者自身には内緒で)連絡をとり、家族の了解を求めるのは本末転倒していると思わざるを得ません。
ただし日本では、このような場合でも患者自身にまず告知を行うと、後から家族が「なんで家族に相談もせずに患者に告知したのか」とクレームをつけてくることが多い事は事実です。
そんなときは、どうするべきでしょうか?
「患者に病名を隠し続けることは現在の情報化社会のなかでは不可能である。」
「患者自身の了解を得ないで、侵襲的な治療を行うことはできない。」
「患者自身に治療の選択権がある。」
「病名を告知しないと患者⇔家族、患者⇔医師、患者⇔看護婦という関係が全て嘘でしか繋がれなくなり、結局患者自身が精神的に孤立する。」
などなど、後からでも家族に十分に説明する必要があります。
本当に患者のことを大事に思っている家族であれば、分かってくれるはずです。
また、これからの精神的支援をこのときに家族にお願いするべきです。

2、患者と家族にいっしょに告知する場合
患者が家族の付き添いの元に病院を訪れている場合など、これが最もスムーズに告知を行える方法かもしれません。最近私はこの方法を最も多く用いています。
もちろん、なぜ本人に告知を行うか、その必要性も十分に本人と家族に説明します。
また、これからの精神的支援をこのときに家族にお願いするべきです。

3、家族に説明し了解を得た後に患者自身に告知する場合
最初から家族が付き添っていて、しかも熱心に病状の説明を求めてくるような場合、やはり日本では、家族の同意を得てから患者自身に告知すべきと考えられます。
この時、家族には予後の悪い病気であることだけを説明してはいけません。必ず同時に、だからこそ本人に病状を知ってもらい、治療の選択権を持ってもらうことの重要性をしっかり説明するべきです。
しかし前述の如く、通常は初めの段階では家族の了解を得ようとしても半分以上の確率で、「本人には病名は知らせないでください」と拒否されます。ここで、引き下がってはいけないと考えています。まず、「あなたがたの今現在の考えは分かりました。」と認めた上で、しかし、もう一度、なぜ本人に告知する必要があるのかを十分に説明し、更にインフォームド・コンセントの基本である「一晩考えさせる事」をまず家族に適応するべきです。つまり、「一晩十分に考えた上でもう一度、本人にどう説明するかの返事を下さい。」と言って、一度家に帰らせて考えさせた後に返事をもらうようにします。また、一度二度拒否された場合でも、少し時間をおいて再度説得し最終的にはできるだけ正確な病名・病状を本人に伝えられるように、努力をするべきです。こうすることにより、家族の了解を得た上での病名告知率を上げる事ができます。

ところで、アメリカでは例え家族に対してであろうとも患者本人の許可なしには医師は病名を教えてはならないという、日本と全く逆のパターンが一般的です。これは病名を知られてしまうと例えば離婚裁判の際に不利になったりするため、安易に家族に病名をもらした医師が告訴される可能性がある、といったような告訴社会ならではの現象と考えられます。日本では、家族に先に説明したがために告訴された例はないと思いますし、またこれからもそういう社会にならない事を祈っています。

先程は「日本にふさわしいインフォームド・コンセント」という表現を、がん告知をネガティブなものに捉えやすくする曖昧な表現として否定しましたが、実はこの3番目の方法がもしかしたら本当の意味で暖かみのある「日本にふさわしいインフォームド・コンセント」たりえる可能性があると考えています。
つまり、家族を教育し患者の精神的ケアについて一緒にがんばってもらう事を同意してもらった上で、患者自身に告知するという方法です。

次に、
告知した後には、患者本人には、治療法に関しては最低限いくつかの選択枝を示し選ばせなければならないと、考えています。例えば、
1、治療しない。もしくは対症療法のみ。
2、ごく軽い治療。
3、スタンダードな治療。
4、強力な治療。あるいは実験的レベルの治療。
5、いわゆる民間療法。
など。それぞれについての、治癒率、寛解率、有害反応、問題点を説明した上で選択してもらう必要があります。

ところで、病名告知はインフォームド・コンセントのゴールではありません。あくまで、単なるスタート・ラインです。しかしながら、スタート・ラインを誤るとその後の軌道修正は非常に困難なものになります。
一方で、病名告知だけ行っても、その後の精神的支援を家族・医療従事者がしっかり行わないと患者はかえって不幸になる可能性があります。
また、病名告知を行うと患者は様々な質問をする様になります。また、様々な自己主張をするようにもなります。それが時として医者や看護婦にはうっとうしく感じられ、従来の理想の患者像からはずれた様にとられる事があります。

※医者や看護婦にとっての、従来の理想の(模範的な、楽な)患者像
 医者や看護婦の言うことをはいはいと何でもよく聞き、決して不平不満や難しい質問を しない患者。

しかし、病名告知を受けた患者はいろいろな不安に付きまとわれるので、様々な質問や自己主張をするのがあたりまえと思われます。
「私のこの病気の平均余命はどのくらいなのでしょうか?」
「通常の化学療法を行った時の5年生存率はどのくらいでしょうか?」
「骨髄移植を行った時の5年生存率はどのくらいでしょうか? 早期死亡率はどのくらいでしょうか? どんな副作用がどれくらいの確率で起きますか?」などなど
そんなとき、医師は誠心誠意それらの質問に答えなければならないし、答えられなければなりません。そのために、勉強しなければならないから大変です。

以上今まで色々述べてきましたが、実際にはこれらはそれほど易しい事ではなく失敗/反省の繰り返しでした。
最後の結論
がん患者(特に末期または進行期がん)に対するインフォームド・コンセントは、言うは易し、行うは難し。というのが実際のところです。しかし、我々はこれをやっていかなければなりません。

最初の命題に戻ります。
人はいつか必ず死にます。私も、あなたもいずれ死にます。日本人の3大死因は悪性新生物(癌)、脳血管障害、心疾患です。それぞれ、1/3づつの割合で起こるとします。あなたは、自分が死ぬときはこのなかのどれで死にたいと思いますか?
 
逆説的になりますが、がんこそが一番幸せな(有意義な)死を迎えうる疾患ではないだろうかと、最近私は考えるようになりました。人生の残り時間が限られることは勿論辛いことと思います。しかし、逆に残り時間が短いからこそ残された時間を有意義に使い(やり残した仕事などを整理する等)、家族や友人などに遺言を残したり、感謝したりすることができるという考え方もできます。いわゆるポックリ病(脳血管障害、心疾患)で死ぬときにはできません。これは、がん患者だけのもつ特権とも言えます。
しかし誰だって、苦しんで死ぬのはいやでしょう。従って、きちんとターミナル・ケアを行ってくれる医療スタッフのもとでなら、私はがんで死にたいと思います。
皆さんは、いかがでしょうか?

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