金沢医科大学は、私が在籍していた頃からとてもアットホームな大学でした。学生が先生の研究室に気兼ねなくお邪魔したり、先生方が学生をご自宅に招いて食事をご馳走してくださったり、そういった温かい関係性がありました。また、当時の先生方が今なお現役でされており、開業後も折に触れて心配のお電話をいただくなどして、あの頃からずっと変わらない関係が続いていることを大変ありがたく思っています。
現在、こうして医療に携わることができているのは、決して私一人の力によるものではありません。私を育て、導いてくださった恩師、大学、そして金沢・内灘という街に、私は感謝の気持ちを忘れたことはありません。母校に対する想いは歳を重ねるにつれてさらに深まっていると感じます。私には娘が二人いますが、長女も金沢医科大学を卒業させていただき、今年開業する運びとなりました。私立大学の場合、親と子、そして孫の代まで同じ大学を卒業するということは珍しくないのかもしれませんが、代々同じ大学で学ぶことで受け継がれる校風や伝統もあるのではないかと思います。
金沢医科大学は、私にとって身体の一部のようなかけがえのない存在です。今後益々の発展を心より祈念しております。
創立50周年おめでとうございます。当時を思い返してみますと新設の大学ということもあり、金沢医科大学は国家試験の合格率が必ずしも良くなく、留年する人も多かったと記憶しています。金沢医科大学の卒業生であることを堂々と言えるような大学ではなかったように思います。ところが、その後私にとって大きな転機となる出来事がありました。
16年ほど前に公益財団法人日本医療機能評価機構からの依頼により、病院の審査を行うサーベイヤーの業務を引き受ける機会がありました。奇しくも金沢医科大学をサーベイすることになり、恐る恐る母校を訪れたことを覚えております。それまで自分の出身大学にあまり自信を持てずにいた私でしたが、周りのサーベイヤーたちから「金沢医科大学は物凄く良くやっている立派な病院だ」とお褒めの言葉をいただき、大変嬉しく誇らしく思ったのです。それからは堂々とあちらこちらで「金沢医科大学の出身です」と公言しています。
私は神奈川県の病院で病院長を務めて30年ほどになりますが、卒業生の一人としてさまざまな業績を上げ、それによって金沢医科大学の名を上げていくことが私にできる母校への恩返しだと思っています。金沢医科大学の今後益々の発展を願い、私自身も尽力してまいります。
開学50周年、心からお祝い申し上げます。私にとって金沢医科大学は、第二の故郷のような存在です。学生時代、勉学の傍ら所属していた野球部のつながりで恩師である髙島理事長に外科を勧められたことが私の医師人生の始まりとなりました。「外科に来たら面倒を見てやる」の一言に感激し、翌日から外科で勉強させていただきました。医局の先生方や先輩方に親切に教えていただいたおかげで自分の実力を上回る成績で卒業できました。
卒業後も髙島理事長が主宰する一般消化器外科に入局し、大学病院での専門的診療に加えて、能登の地域医療にも携わらせていただきました。この経験を礎として12年前に地元の青森に戻り、全国一の短命県(特に大腸がん死亡率が全国ワースト1)の汚名返上に寄与する想いで開業しました。現在は「ここで見つけ、ここで治し、ここで予防する」をモットーに消化器がんの早期発見と内視鏡的治療に重点を置いた診療を行っています。
金沢医科大学で教えられた「良医」を目指し、恩師の望まれる医師になっているかどうかをいつも自分に問いながら患者さんに寄り添った診療を心がけ、医療・看護・福祉の輪で地域のみなさんの元気を支えてまいります。この50周年を機に今後も金沢医科大学のネットワークがこれまで以上に全国に広がり、ますます発展されますことを祈念いたします。