留学日記〜国立公園めぐりとディズニーランドとゴルフと…

 1995年1月から1996年12月の丸2年間、アメリカはカリフォルニア州サン・ディエゴ(ラ・ホヤ)のスクリップス研究所免疫学Dr.Dennis.R.Burton研究室へ留学させていただきました。ここでの研究の内容は一言で言うと、「コンビナトリアル抗体Fabライブラリーを用いたヒト型モノクローナル抗体のクローニング」であり、興味のある方は上記へ。
 ここでは主に”いかにアメリカ生活を楽しんだか”について書こうと思います。

出発
 1995年1月17日、今から始まる未知なる留学生活に期待と不安を胸いっぱいにふくらませていた私をまず襲ったのは、拳銃でもマリファナでもなく阪神大震災であった。あの朝大きな地震に一旦は気付き覚醒したものの再び眠りに堕ち、その後朝のニュースを見て唖然とした。こんな状況では、関西空港までたどり着けないではないか。結局、留学の最初からケチをつけられたような格好で、実際に出発したのは1週間後の1月25日であった。前途多難である。

サン・ディエゴの気候その他
 サン・ディエゴと聞いてもどこにあるのか分からない方も多いだろう(私も留学することにならなかったら多分知らなかった)。温かいアメリカ西海岸カリフォルニア州のロス・アンジェルスより更に南のメキシコとの国境近くにある。つまりは、アメリカの中で最も気候が良く過ごしやすい。治安もメキシコの近くにあるにもかかわらず、アメリカの中では良いところとされている。ロス・アンジェルスや東京のような大都会(私はこういった大都会の人ごみが苦手だ)ではなく、かといって全くの奴田舎でもなく、ちょうど金沢のような私には絶好の環境であった。更に金沢と違って、一年中雨が降らないのだ。だから誰も傘を持っていない。1年に1〜2回しか必要ないのだ。こんな気候の所に住んでいるのだから性格も明るくなる。オープンで、フレンドリーで、良い人達ばかりだった、ような気がする。
 
住居と車
 現地に着いてまず住むところを探さなくてはならない。幸い同じラボに先輩の日本人がいて、色々と世話をしていただいた。幾つかの候補のアパートを廻った後、ラ・レジェンシアとういうアパートに決めた。値段も月に$850で手ごろであったし(もっと安い所もあったがアメリカでは安全も買わなくてはならない)、すぐ横にVonsという大きなスーパー・マーケットを含む大きなショッピング・モールがあり、更にすぐ向かえにドイル・コミュニュティー・パークという公園があり、子供を遊ばせるにも申し分なかった。更に、住人は自由に使えるプールが2つに、ジャグジーに、アスレチック・ジムにバーベキュー施設に…。部屋も2ベッドルームで広すぎたくらいだった。こういう環境に一度住んでしまうと、日本がいかに貧しいか分かる。いくらGDPが高くて年収が多くても、そのぶん物価が高ければ相殺されてしまう。日本の家屋を兎小屋だと言うのも頷ける。景気回復を祈るばかりである。
 さて、車なしでは生きてゆけない広い国だから次は車探し。いろいろな考えかたがあって、”せっかくアメリカに来たのだから日本車にのるなんて”というのと”アメリカにいるからこそ故障の少なくて安全な日本車がいい”と、どちらも一理あった。結局、日本人のつてから中古の92年式カローラDXを$8,200で買い取った。個人的にはアメリカにいる時くらい派手なアメ車に乗るのも悪くないかなとも思っていたのだが、結局無難なところに落ち着いてしまった。

言葉の壁
 よく”アメリカに2年もいたら英語がペラペラになったでしょう?”と言われる。私も、行く前まではそんな甘い幻想を抱いていた。しかし、現実はそれほど甘くはなかった。まず、相手の喋っていることが早すぎて聞き取れない。聞き取れるのは日本人の喋る英語くらいだ。こちらが何か伝えたくてもボキャブラリーが少なくてなかなか伝わらない。行ってから半年くらいで全く英語の上達しない自分に幻滅する。これはだめだ!、と思う。しかし、逆に”英語が満足に喋れなくても生きていくことはなんとかできる”事がわかった。この段階で、”猛烈に英語を勉強しようと考えるひと”と、”まあこの程度でなんとかなるならこれでいいやと考えるひと”がいると思うが、私は後者であった。まあ、大抵は何とかなるのであった。
 しかし、勿論いろいろと困る事も多かった。例えばお金を払って何かを買い求めたい時は、相手も一生懸命こちらの言うことを聞いてくれるので楽だった。一方、お金を払わずに何かをしてもらおうとすると、これがなかなか難しい。部屋の鍵が壊れてアパートのメインテナンスの人を呼んだとする。奴らは決まって約束の時間に来ない。こっちだって仕事の合間をぬってアパートへ帰って来ているのだから、その時間に来て直していってもらわなければ困る。怒って電話すると、大分たってからやってくる。悪びれもせずに、例によって土足でそのまま部屋の中に上がりこんでこようとするから、”Please take off your shoes.(靴を脱いでくださいな!)”と言う。ところが、奴らこれでは靴を脱がない。後から聞いたところによると、作業中に靴を脱いでいて足に怪我をしても保障してもらえないらしい。それにしても、”This is Japanese custom. You are in my room.(日本じゃこれが普通なんだよ、ここは俺の部屋の中なんだ、べらんぼうめ!)”と叫ぼうが、こちらの、10倍くらい言い返してくるから、結局言葉の不自由なこちらが負けてしまう。結局、心のなかで”Fuck you!”と叫んで終わるのであった。
 相手と面と向かって話すときは、身振り手ぶりでなんとかなる。問題は電話だ。多くの日本人がラボに電話がかかってくるとゾッとすると言っていたが、その通りだった。日本でも、電話によるキャッチ・セールスみたいのがあるが、あちらでも同じようなのがあり、しかも相手はこちらの不自由な言語を自在に操るのである。
 文章で書いてあっても、やはり分からない単語が沢山でてくると辞書なしには解読不能である。”Summons”と大きく書かれた封書が届いたことがあった。辞書で調べると、”出頭命令、呼び出し状”などと書いてある。更に、中身を少し見ると”裁判所に来い”と書いてある。これには青くなった。夫婦共に青くなった。実は、その少し前に税金のための申告で、どうせ日本でいくら収入あるのかなんて分かりゃしないよなんて、かなりごまかして書いて提出したのが、ばれたと思ったのだ。どうしよう。裁判にかけられたって、何言われているかさっぱりわからんぞ。日本語の通じる弁護士でも雇わなければならないのだろうか。そんな具合で、一晩気分の悪い時間を過ごした。翌朝、もう一度、その封書を読み直して見る。”Jury duty is civic responsibility(陪審員の仕事は市民の義務です)”。ここにきて、ようやく自分が悪さをしたがために呼び出された訳でないことに気付く。つまりは、運転免許証をとった人間に無作為に陪審員としての仕事のお誘いがくるようなのだ。”I'm not a US citizen(俺はアメリカ人じゃないぞ!)”の欄にチェックして返送して、ようやく一件落着。この時は本当にあせった。

偉大なるアメリカ旅行
 まず、地球の歩き方”アメリカの国立公園”を買った。実に沢山の魅力的な観光地が有りそうな事を知る。始めの頃は、このなかの1つ2つ行けたらいいなと思っていた。
 1年目の11月思いきって、ボスに約1週間の休みをとりたいむね告げ、
ヨセミテ国立公園へ訪れた。この公園はいろんな見所があるが、幾つもの滝が最もダイナミックな見所のはずだった。しかししかし、11月という季節が悪かった。最も水の少ないこの季節においては、偉大なるヨセミテ滝(アッパーとロウアー)も、ほんのわずかな水のしたたりに過ぎなかった。残念。それでも、緑あふれる景色、巨大なる木々のマリポーザ・グローブ、そしてグレイシャー・ポイントからの雄大な眺めなど感動せずにはいられなかった。もう一度、5〜6月の水量の豊富な季節にこの公園を訪れてみたい。  周りに日本人の知人も結構でき、こと旅行に関しては大きく2種類の日本人に分類できることを知る。グループA;仕事一筋でアメリカに何年間も住んでいるのに自分の住居近辺以外ほとんど遠出をしたがらないタイプ。グループB;仕事も勿論それなりにこなすが、アメリカに永住する訳ではないので、このチャンスにあちこち旅行しまくるタイプ。私の周囲に典型的なグループAおよびBの人がいた。即座に典型的なグループBの人を見習うことにした。ここに至って、地球の歩き方”アメリカの国立公園”の半分くらいは制覇できないかと、大幅に目標を変更。でも、残りあと1年しかなかった。
 ところで、ラボのボスの性格によって大っぴらに長期休暇を取れるか否かは、大きく差がでるようだった。中でも、日本人のボスのラボは最悪で土曜、日曜の朝にラボのミーティングがあったりして全く休めないらしい。それに引き替え、私のボスはイギリス人だが、実に良く休んだ。学会と称して海外に出かけ1カ月くらい不在になる事が年に2〜3回あった。学会が1カ月もある訳ないだろうと思いつつも、こちらも堂々と休暇を申し出やすい正に理想的な環境であった。これだけ休んでもいざ仕事をやるときは凄い集中力で行い、国際的に評価される仕事がレベルの高い雑誌に次々掲載されるのだった。ボスを見習ってだらだら仕事するのは避けようと思った。(結果はともかく)。
 2年目の4月。ここから命知らずのアメリカ西海岸周辺国立公園めぐりが始った。ヨセミテへ行った時は一日に車で長距離を走行することにためらいがあったが、2年目になり少々慣れてきた事もあり、かなり大胆な旅行計画を立てた。1週間で、グランド・キャニオン国立公園(サウス・リム)〜レイク・パウエル〜モニュメント・バレー〜ブライス・キャニオン国立公園〜ザイオン国立公園を巡ってしまおうという計画である。一日に平均8〜10時間は車で走行しなければならない。
 
グランド・キャニオン国立公園はやっぱり大きかった。ガイドブックにもここの偉大さは、始めに見た瞬間が最も感じると書かれてあったが、正にその通りであった。いろいろな観光ポイントがあるのだが、どこから見ても巨大なる割れ目ちゃんであって、さほど代り映えしないという見方もある。谷底までトレイル(ハイキングコース)が続いていて、ガイドブックによると本当の偉大さは歩いて谷底まで行って見ないと分からないとも書いてある。そりゃあそうなんだろうけどさ、こちとら1歳5カ月の子供を背負って下りなければならない訳だし、それでなくとも、右膝の内側側副靭帯損傷と左のアキレス腱断裂の既往があるし、等など幾つかのネガティブデータを揃えてみたものの、結局、谷底までは無理としてほんの少しだけ歩いて下りてみることにした。”水を忘れると死ぬぞ!”と書いてある。まあ、なんとかなるだろうと思いつつ下り始める。しかし、子供を(重い!)背中に背負っての急な下り坂は予想していた以上にきつかった。40分くらい下りたところで、Uターンし帰る事にしたが、上りは更に辛い。しまった、水を忘れた。なんとか、やっと戻ってレモネードをがぶ飲みしやっと生き返る。確かに谷底まで歩いて下りるのに水を忘れたら死ぬだろう、きっと。この間、子供はほとんど私の背中でお昼寝中であった。
 
レイク・パウエルは、グランド・キャニオンの下流でコロラド川を塞き止めて作られた人造湖である。ここでは、遊覧船にのり一日のんびりと観光した。水をたたえたグランド・キャニオンと称される事もあり、映画「猿の惑星」の撮影にも使われた場所で、非常に素晴しかった。時間があったらもっとゆっくり滞在していたかった。
 
モニュメント・バレーは誰もが映像で見たことのある所謂西部劇の景色で、有名なところではジョン・フォード監督の「駅馬車」などや、最近では「バック・トウー・ザ・フューチャー3」でデロリアンが過去にタイム・トリップした時にインディアンの騎馬隊に正面からつっこみそうになった、あの場所である。ここも、期待した通りの雄大な景色だったが、乾燥していて凄く埃っぽかった事を記憶している。地元の若いナバホ・インディアンがガタガタの車(フロント・ガラスにはヒビがはいっている)で案内してくれた。
 次の、
ブライス・キャニオンが最も期待していた所だった。グランド・キャニオンほど有名ではないが行った事のある人達はみな素晴しいと言う。ところが、標高が高いこともあり我々がたどりついた時に雪が降ってきた。一応、観光ポイントまで行って見る。真っ白でなにも見えない。あきらめて、ロッジの部屋に帰ってあーあ!とため息をついていたら、急に晴れ上がってきた。それ急げと先程の観光ポイントへ引き返したところ、それが素晴しかった。普通にみても美しい岩の並びに雪化粧が施されて、息を飲むような景色であった。ただ、非常に寒かった。その上、ロッジの中で夜中に鼠が出るという、おまけ付き。
 
ザイオンは、どうしてこんな事になるのだろう?というような巨大な岩々の集まっている場所である。ここまで、色々巡ってきた最後だけに随分と感動慣れしてしまっていたが、それでも、日本ではこんな景色は絶対にお目にかかれないことは確かだ。
 旅行中なにが困るかというと、子供の食事である。わが娘は生後4カ月からアメリカ育ちのくせに、なぜか日本食党であった。なにせ好物が納豆ご飯である。しかし、旅行中の食事はどうしても、ハンバーガー、ホットドックばかりになる。私や妻は、なんとか我慢して食べるが、当時娘はほとんどこれらのアメリカン・フードを食べてくれなかった。フレンチ・フライ(フライド・ポテト)しか食べないという日々が何日も続くとさすがに心配になってくる。だから、旅行は1週間が限度であった。1週間ぶりに、サン・ディエゴに帰り、ヤオハンで材料を調達し納豆ご飯を出すと、がっつくように食べた。おお、なんと可愛そうに、ひもじかったんだね、と言いながら、次の旅行計画を立て始めた。
 4月の旅行で連日の長時間長距離ドライブにも変な自信がつき、7月に更に過酷な旅行計画を慣行。ツーソン〜カールス・バット国立公園〜ホワイト・サンズ〜サンタ・フェ〜メサ・ベルデ国立公園〜ミーター・クレーターなどを巡る旅。
 ツーソンに行く途中、カリフォルニア州〜アリゾナ州へ入ったところで、Oh my god!スピード違反でつかまってしまった。例によって、なに言っているか分からない警官が車に近づいてくる。警官が来た時はむこうがノックしてくるまで、両手をハンドルに乗せておかないと、拳銃を取り出すのと勘違いされて、ズドンとやられると「アメリカ生活マニュアル」に書いてあったのを思いだし、緊張した。ズドンとはやられなかったが、30マイルほどオーバーで、$190ほど罰金をとられる事になった。旅の最初から先が思いやられる。
 ツーソンはとにかく暑くて暑くて暑くて。ホテルにチェックイン後、
フランシスコ・ザビエルの教会や、飛行機の博物館へ行った。汗ぐっしょりだった。その後、「OK牧場の決闘」の現場のあるツームストン(パイルドライバー!ではない)へ行ったが、時間が午後5時を過ぎていてOK牧場は見れなかった。ホテルへ戻ろうとした時に検問に合う。メキシコからの不法入国者を調べていたようだ。パスポートを出せという。しまった、鞄ごとホテルに置いてきた。とりあえず、運転免許書(アメリカでは通常は身分証明書として通用する)を見せるも、そんなものは簡単に偽造できるからパスポートを出せと言う。ホテルに忘れてきたことを説明し、あれこれ質問されたあげくようやく解放してもらった。メキシコ人に見えるかなあ? どうも、この度の旅はついていない。
 カールス・バット国立公園、ここが今回の旅の第一目的地であった。ここは、他の国立公園と全く異なり、地下の世界である。世界一の巨大な洞窟で、鍾乳洞が神秘的な世界を創っていた。また、洞窟の出口から、夕方になると多数のコウモリが餌を求めて飛び立つのを見学するのが最大の観光ポイントでもある。だが、我々が見に行った日はコウモリの飛び立つ時間が割と遅くて、暗くてあまりよく分からなかった。残念。ただ、コウモリが飛び立つのは自然現象であるし、予測時間からはずれたとしても誰を恨む事もできない。
 
ホワイト・サンズ国定公園、ここはその名の如く、白い、とにかく純白の砂の砂漠である。雪のなかにいるような雰囲気だった。一番喜んだのは娘で、日が暮れるまで砂遊びをしていて、モーテルへ帰った時は下着の中まで砂だらけだった。
 サンタ・フェ、誰もが宮沢りえの写真集を思い浮かべるこの土地は特徴的な建造物がたくさんあり、他の国立公園巡りとは違った趣きであり、これはこれで楽しかった。
 
メサ・ベルデ国立公園、ここは断崖絶壁に建てられた古代の遺跡趾であり、不思議なところであった。ここまでくるとかなり疲れがたまっていて、体力を消耗しそうなガイド付き観光コースを歩こうという気力も、もはやなかった。車で廻れるところで、眺めるだけとした。今思うと少しもったいない。ところで、国立公園内のロッジのレストランの食事は大抵はTerrible; 悲惨だったが、ここのレストランの食事はExcellent; 優秀であった事を今だに覚えている。食い物の恨みは恐ろしい。
 ミーター・クレーター、ここは世界で最大の隕石の落下跡である。アポロの月面着陸の時の訓練場所でもあったらしい。ここは、要するに地球のおへそちゃんであって、するとその廻りで見学している我々は地球のへそのごまか?
 さて、サン・ディエゴに戻ってまずやるべきこと、罰金を払い込まなければならない。日本での19000円も辛いが、アメリカで$190は大金である。泣く泣く支払ったが、同じラボのデンマーク人に、もしカリフォルニア州内で違反した場合は罰金を払い更に裁判所まで行かなければならないので、アリゾナ州で捕まったおまえはラッキーだと慰められる。それは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
 またまた、懲りずに9月に旅行計画を立てる。今度はイエロー・ストーン国立公園〜グランド・ティトン国立公園。サン・ディエゴからは遠いので今回は途中のソルト・レイク・シティーまで飛行機で行き、そこからレンタカーとした。これまた、始めての体験でなかなか緊張した。
 
イエロー・ストーン国立公園、ここは非常に広く様々な見所のある国立公園だった。特に、地下のマグマの力を感じるような多くの間欠泉や温泉プール(泳げません)、その周りの豊かな自然、多くの野性動物など、時間があればもう少しのんびりと過ごしたい場所である。ソルト・レイク・シティーからの道のりがことのほか遠く、最初に泊まる予定のマンモス・ホット・スプリングス・キャビンに夜の9時頃ようやく到着した。暗かったので分からず、ホテルの入口に向かい小走りで向かったその時、たまたまそこにいたエルク(鹿の一種)が私に驚き、こちらに突進してきた。たまたま、そこに他の車があったのでその蔭に隠れ難を逃れたが、あの車が無かったら大怪我をしていたかもしれない。
 
グランド・ティトン国立公園では、映画「シェーン」の舞台となった、雄大なティトンの山々を見渡せる。ここでは、本当にのんびりと贅沢な時間を過ごした。今までの、連日連日ドライブし次々と国立公園などを巡った旅もそれなりに面白かったが、本当に贅沢なのはこのように一箇所で充実した時間を過ごすことだと分かったような気がした。
 ソルト・レイク・シティーへ帰る途中牛の大群に囲まれて車が進めなくなった。どうやら、牧場から牧場へ全ての牛を大移動させていたらしい。回り中とにかく牛だらけで、モーモーうるさくて仕方が無い。飛行機の時間に間に合うかどうか分からず焦るが、動けないものはどうしようもなかった。娘だけは異様な出来事を喜んでいた。それでも、なんとか飛行機に間に合いほっとした事を覚えている。
 アメリカ生活のタイム・リミットが近づいてきて、あとどこに行けるか思案した。いくつかの案があって、アトランタへのオリンピック観戦、ニューヨークなど東海岸、メキシコまたはカナダなどいくつか検討した。結局、アメリカ生活最後の旅行は同じアパートの隣に住む日本人のご一家とラス・ベガス〜デス・バレーへ行く事にした。ちなみに、日本人は前述の私の分類によると、グループA;仕事一筋でアメリカに何年間も住んでいるのに自分の住居近辺以外ほとんど遠出をしたがらないタイプ、に分類される。そこを、なんとか説得し今回の旅を計画した。
 ラス・ベガスはご存じの通り、ギャンブルとショーの都市である。ここには、今まで見てきた健全なアメリカと正反対の不健全なアメリカがあった。今まで見てきた大自然の偉大さとは別の人間の欲望の集大成であり、各ホテルのカジノに集まる人々を見ると人間の欲望のパワーというものを感じた。サーカス・サーカスという割と安めのホテルと、MGMグランドという高級ホテルに泊まった。ブラック・ジャックを少しだけやってはみたものの負けてしまった。まあ、観光だからそれも良いこととする。
 デス・バレーは標高がマイナスで、結果、非常に暑く、真夏には60℃を超えるという、まさに、死の谷である。塩が固まって白い海のように見える。ゴツゴツした岩の続く
悪魔のゴルフ・コースなど。
 以上が、私の体験したアメリカ西海岸周辺旅行の概略。

ディズニー・ランド
 サン・ディエゴにもいくつかシー・ワールド、サン・ディエゴ・ズー、ワイルド・アニマル・パーク、オールド・タウンなどの観光名所があって、今となっては全てが懐かしい場所なのだが、やはり、ロス・アンジェルスに近いため、その手前のアナハイムという土地にある、元祖ディズニー・ランドにはよく行った。娘が、プーやミッキーを大好きという事もあり、家族で何度もでかけた。アナハイムの元祖ディズニー・ランドのアトラクションは基本的には東京ディズニー・ランドと大差無いが、いくつか、東京にはないものがあった。例えば;インディー・ジョーンズ・アドベンチャー、マッター・ホルン・ボブスレー、イエロー・サブマリンなど。やはり、大人が行っても楽しめるし、ウオルト・ディズニーは偉大である。一日$33の入場券であったが、年間パスポートが当時$99で買え、3回行けば元がとれた。

ゴルフ
 大体が安い。というのが、アメリカのゴルフの偉いところである。というよりも、日本のゴルフが高すぎるのだ。日本人のよく集まるゴルフ仲間が20人位いて、月に一回皆で回った。平均が$50程度である。日本で5000円のゴルフ・コースがあるだろうか? ショート・コースを別にして、一日平均3万円かかるようなゴルフは一般的なスポーツといえるのであろうか。ラボのすぐ横に練習場があり毎日のように通った。仕事が実験のみであるから、酵素を反応させている時間とか、電気泳動している時間は基本的に暇だったから出来た技である。結果、腕前は飛躍的に上達…するはずだった。が、…。 

情報
 アメリカはケーブル・TVのチャンネルが多く、なかにインターナショナル・チャンネルという各国語の番組を放送しているプログラムがあり、おかげで日本の情報もほぼリアルタイムで得られた。震災〜オウムの一連のテロ事件の真っただ中であった。アメリカ人に”日本はなんて物騒な国なんだ”と言われたときには、”おまえ達に言われたくないわい”とは思ったものの、確かに当時は日本の方が物騒だった様な気はする。ウイークデイはフジTV系のニュースが見れたし、日曜日はTVドラマが見れた。私は、日本では殆どTVドラマは見ないのだが、なぜかアメリカにいたときは必ず、ビデオに録画してまで見ていた。

やはり物騒な国?
 サン・ディエゴの治安は比較的よいと前述したが、それでも周りにいくつか物騒な事件があった。
 恋人にふられた男が、軍隊に忍び込み戦車を奪って市街地を走り回ったという事件があった。走り回った場所は毎週必ず行ったヤオハンの周辺であった。もし、運が悪かったら戦車に車ごと潰されていたかもしれない。
 先ほど一緒に旅行したお隣さんとは反対側のお隣さんも実は日本人で(つまり私の両隣は日本人が住んでいた)この人ののボスは、UCSD(カリフォルニア大学サン・ディエゴ)で、娘さんと共に殺害されたあの斎藤教授であった。ラ・ホヤという最も治安の良いはずの一等地で起こったこの殺人事件は当時あたりを恐怖に落としいれた。今だに犯人は捕まっていないはずである。この時、お隣さんは仕事がアメリカで続けれるかどうか分からなくなり、本当に気の毒であった。
 また、同じラボに後から入ってきた日本人が、夕方家に帰るコールをしたところ、大事件が分かった。その人の家の向かえに爆弾や危険な化学物質などを作り指名手配されていた凶悪犯が潜んでいたらしい。その部屋をSWATチームが取り囲み騒然とした雰囲気になっており、自分の家に入れず、奥さんと子供達は家から出られずと、大変な事になってしまった。結局しばらく私のアパートでしばらく休んで頂いたあと、夜の10時ころもう一度現地へ行ったところ、ご家族を警察がようやく外へ連れ出してくれて、そのご一家は一晩ホテルで宿泊となった。後に、犯人は射殺され家の回りには弾痕が多数残っていたという。
 私の、アパートは一応ダブル・セキュリティーといって、アパート自体に入るのと、部屋に入るのにそれぞれの鍵が必要で、一応安全なはずだった。それでも、住人に付いてくれば入ってこれる訳で、絶対の安全などありえない。事実、一階が駐車場であったが、そこで日曜日の白昼堂々とベンツとロードスターがジャッキアップされタイヤがホイールごと盗まれていた事があった。日曜日の朝我々が見たときはそんなことにはなっていなかったのに、夕方帰ってきたら2台並んでジャッキアップされ、タイヤがないのである。あれには驚いた。狙われるのは高級車ばかりで、私のカローラは大丈夫だろうと思う事にした。
 しかし、古すぎる車も逆にその部品等を目的に狙われるようである。知り合いの日本人の車が盗まれ、大分たってからなんとメキシコでそのボディーが発見されたこともあった。ボディー以外は殆どの部品がなかったらしい。私のカローラはそこまで古すぎもしないので大丈夫だろうと思うことにした。
 なんだ、やっぱりアメリカの方が日本より物騒ではないかと、今は思う。

帰国
 あっという間の2年間が過ぎ、帰国の日が近づいてきた。車やその他家具もろもろを売らなければならない。ムービング・セールのちらしをヤオハンにはったところ、次々と電話がきてたいへんだった。ヤオハンにくる客も日本人ばかりではないため、英語の電話も次々かかってくる。一番問題の車をある日本人に$5000で買い取ってもらいようやくほっとした。$8200で買ったカローラを2年間乗ったあとに、$5000で売ってきたわけで、いい商売だった気がする。車検がないというのは良いシステムである。
 帰国直前はロス・アンジェルス空港の近くに一泊。当日は余裕をもって飛行機に搭乗できるはずだった。ところが、日本から連れていったネコの搭乗手続きに予想以上に時間がかかってしまった。急いで欲しいときに限って、向こうの人はのらりくらりとマイペースである。それから、慌ててレンタカーを返しにいったのだが、返す場所が予想以上に空港から離れていた。そこまで、なんとかたどり着き返却手続きをして、そこからまた空港行きのバスにのる。空港に着いた時は離陸時間のかなり寸前である。2歳になる娘と手荷物を持って空港内を走る。搭乗前の検査で、日本から持って行ったノート型パソコン(パワーブック)を立ち上げて見せなければならない。というのは、ノート型パソコンの形をした爆弾があるらしく、それが本当にパソコンかどうか調べられるのである。こっちは少しでも急いで欲しいのに、またここでも係員はマイペースである。コンピューターかどうか調べる専門の人がいるようで、そこの係員は”コンピューター・チェック!”と叫んで、その係員を呼んでいるようだが、その人が来ない。3〜4回叫んでも来ないので、ようやくその係員が、じゃあここで立ち上げてみろと言う。おまえ自身がチェックできるんだったら最初からそうしてくれと思う。こういう時に限ってコンピューターがなかなか立ち上がらない、イライラ…。O.K.。ここからまた、娘とコンピューターと手荷物を持って搭乗ゲートへダッシュ。離陸時間の10分前を割っていた。飛行機に乗り込み、体中汗だらけで、私も妻もしばし疲れてなにも出来ずに呆然と座っていた。

 思い起こすと波乱万丈の、2年間でした。本当に、2年間も生活していたのかなと、ふと不思議に思います。
 最後になりましたが、留学の機会を与えて下さいました教授および不在の間病棟を守っていただいた血液免疫内科医局員の皆さんに感謝いたします。
 そして、こんな危険な、しかし素敵な生活につきあってくれた、妻と娘に感謝します。

HOMEへ